昭和46年03月01日 朝の御理解
御理解 第80節
「年寄りを大事にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。皆神のおかげで生まれて来たので、早く生まれた者程世の為に働きを沢山しておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人は何となく人が敬うようになるが、不都合不行届きが重なれば敬うて呉れぬ様になる。信心する者はよう心がけておるがよい。」
年寄りを大切にせよ。のっけから年寄りを大切にせよと、当り前の事ですけれども、お互いが年寄りを大切にしとるであろうか。年寄りを大切にすると云う、そういう心の状態、そういう心の状態が神様の気感に叶うのですね。心に叶うのです。どうしても年寄りを軽く見たり疎かになったり致します。特に私なんかそうですけども、年寄りが何ば言いよるな、と云った様なものがいつも年寄りを大切にする心じゃなくて、その反対に大切にしていない事になる。
これではおかげが受けられないと思いますね 年寄りを大切にすると云うことは、こんなに見た目にも好い事はないし、又尊いものだと思います。昨日は日曜でしたから、伊万里の竹内先生一家で御礼参拝が有りましたが、八十幾つでしょうか、竹内先生御夫婦でそれこそ、お婆ちゃんを中に挟んで、それこそ手取り足取りされぬばかりで、いわゆる年寄りを芯から大切にされながらの御礼参拝でございました。
当に見習わせて頂かにゃならんなと思うのですけど。私は何と云うても、ここでは年寄りと云う事なんですけど、親が子供に大切にされる位に親にとって幸な事はないと思うですね。どんなに他の者から大事にされても、肝心要の自分の子供やら、嫁から粗末に扱われる位年寄りとして不幸のことはない。親として不幸なことはないと思います。他家の誰から大事にして貰うよりも、やはり息子から嫁から大事にして貰うと云うことが親にとって一番嬉しいことであり、有難い事じゃなかろうかと思います。
勿論年寄りを大切にせよと云うのですから、勿論年寄りの誰もが大事にされなければならんのですが、取分け自分の手元のところと云いますか、自分の家庭家族に於いて年寄りを大事にしておるかどうか、年寄りと云えば死ねば年寄りが居らんかと云うてもね、やはり御先祖がある。信心は目に見えるところだけを大事にするのではなくて、目に見えないところを大事にするのである。
例え両親が亡くなっておられても、御霊様は御座る訳である。今月の信心の焦点とこういう事、信心する者は目に見えぬおかげを大切にせよ。と。だから目に見えないところを大切にしようと。目に見えぬおかげ。そこで年寄りが居った。親が居った時には果してどの様に親を大事にして来たであろうかと思うてみれば、粗末にしてこなかったけれど、大切にはして来なかったと云ったことに感じ付くだろうと思う。
信心は形の上だけの事ではないですから改めてそこんところを詫びる気になり、改めて御霊様を大事にするようになって参りましたら同じ事です。目に見えぬ所、目に見えぬおかげ。親が子を思う心と云うものは何処の親でも同じ事。子供の幸せを願いに願い切って来て居るのである。そういう親が子を思う心に対して、子が親に対してどの程度の思いをもって親を大切にして来た事であろうかと、成程粗末にはしなかった。
ろくそうに扱いもしなかった。と、けれども、神様に喜んで頂ける様な、ここで年寄りを大切にせよと云う意味に於いての大切にしてきたかどうかと、そこに私はお詫びさせて貰うて御霊様に改めて大切にさせて貰う。実際に現在親が御座るならば、年寄りが現在御座るならば、その年寄りを本気で大切にさせて頂こう。それは神様の心に通う様な心で大切にさせて頂こう。
只撫でたりさすったりさせて頂く事ではない。本当に親が子を思う、思いと云うものは本当に尊い。ならば子が親に対する思いと云うものは本当に相済まぬ事ながらその比重から云うと軽いものになる。信心させて頂いておかげを頂く。神様に年寄り子供を大切にする人は神様に好かれると云った御教えを頂いた事有りますが、本当に御神徳を受けて行く人達はその親に対して親が子を思う思いにも増して親を思う人達ですね。
昔あの姥捨て山と云う話がありますね。映画にもありましたね楢山節考昔はそういう習慣があった。露骨にもう幾つになったら子供は必ず親を山に捨てに行かなければならない。悲しい話ですけれどもやはり私はね、もう捨てても同然な取扱をしておる事はなかろうか。年寄りをそんなに軽く見て居ることはなかろうか。早くくたばればと思いはせんでも、もう姥捨て山に捨てて居るも同然な考えの人達がありはせんだろうか。
無茶苦茶な最近の流行語の中に、家つきカー付婆抜き等と云う言葉が有るでしょうが。実に酷な流行語ですよね。自分達は婆にならんのだろうか。自分達は爺にならんのだろうか。思うだけでもゾっとする話である。もうすでに年寄りを山に捨てておるのじゃなかろうか。姥捨て山の話にありますが、年寄った婆を背負って、ずっと山に姥捨て山に捨てに行く。ところがその婆さんが息子の背中に負われながら、道ん道すがらに木の枝を折っては捨てて行った。
息子が何をするかお婆さんと言った所が、あんたが帰るときに道迷うてはならんからと、自分は捨てられるのに、けれども帰りに子供が道に迷うてはならないと云う。それが私は親子心だと思う。親とはそんなものなのです。その思いに応える事こそ私は信心だと思うですね。天地の親神様の御心を分からせて貰うて、その心に添う事が金光教の信心だと、云うならばです、一番手近な所の親の思いを分からせて貰うて、親の身上を悟らせて貰うてその身上に添うて行く事が私は信心ではないかと思います。
教は一つ目に見えぬおかげを大切に、私共がおかげおかげと云うておるのは、それはもう氷山の一角だ。それこそ神様のおかげと云うものは、どれだけ深いやら大きいやら分からん。それを気付かないだけの事。親の思いに於いてもしかりである。親が言葉に表したり、形に表したりして云うたりしたりしておる事は氷山の一角である。その思いと云うものはこの様な深い思いで、しかもそれは無条件に思っていて下さる。
それが親である。その目には見えないけれども、そこんところを一つ、おかげを頂いて、目には見えぬが神の中を分けて通りよる様なものじゃ、道を歩いておろうが、畑で肥をかけておろうが、神の中を分けて、通りよる様なものじゃと、教祖様が仰るようにそういう、神様のおかげの中にある。同時に親のそういう深い祈りの中にある。その親の祈りの中を分けて通っておる様なものだけれども、親の祈りを祈りとも思わず、気が付かないどころか、お粗末にしておる。
私も先日本当に汗顔の至りです。思うだけでも脇の下から汗の出る思いをした事がある。先日敬親会でお話させて頂いた。何時も二十九日ですけども今月は二十九日がないから二十七日になさいました。色々お話した後に私の横に座っている母がこう云うんですよ。最近日田から綾部さんと一緒にお参りなさるお方が居んなさろうがの、大きな体格のおっちゃまが参って来よんなさるが、あの方の名前は何ちゅのと云います。
あんたが聞いてどうすんの、人の名前ば聞いちから、あんたがどうすんのと云いましたらね。私はあの方の事ばお願いせんならんち云いました。もう皆さんのね、毎日お参りになる方のお名前は皆知っているんです。皆さんの名前は、けども最近参って来なさるあの大きいおっちゃまの名前を知らんけん、何ちゅうのと云いますけん、あんたが年寄りの何ちゅうの、あんたが聞いて何になるのと云う訳です。
私はそしたら母がね、あの人の事をお願いせんならんち云いました。私はあん時脇の下から汗が出て、あん時は皆さん聞いて居られましてね、本当に親先生が親は大事にするちから、云いよんなさるけど、あげなこと云いよんなさるちゅうて、笑いよんなさったろうと思うて本当にひやっとしました。親ちゃ例えば私が祈って、祈るだけじゃない。それがね、足りないところ又お願いして親が祈って呉れておる。
こげな祈りを受けておって、婆ちゃん済みませんと思うたですけどね。私共はそういう祈りの中にあるのですよ。私共はそういう様な祈りの中を分けて通る様な親の祈りの中に在るけれども、それをそうやって気が付かないのです。大抵親を大切にするとか年寄りを大切にするとか、私は年寄りは好きです。私は他の誰より年寄りは好きで大切にしておると思っている私が、そんな脇の下から汗の出る様な事を平気で言いよる。
聞いて初めてびっくりする位。今日は取分け目には見えぬおかげ、私共がじっとあれを思い、これを思いさせて貰う時に、あれもおかげであった、これもおかげであったと気付かなかったところに、御礼の申し上げさせて頂く事の多いのに驚く位。そういう中に今月は取分け目には見えない親、目には見えない親の祈り、それを私共信心心で受けさせて貰う。それが感謝するところは感謝させて貰い。
それに対してお返しと云った様なものを、例えば、親は御座らん、もう亡くなっておられるならば、御先祖の御霊様に思いの足りなかった事を詫びさせて貰うて、目には見えない御先祖ではありますけど、私の家の根であり私の家の今日あるおかげを頂いておる一番手近なのが親である。その親を大切にする。年寄りを大切にする意味合で御仏飯もお供えなさいましょう。お茶とうもしよんなさいましょう。
又改式をしておられる所では、好きな御神酒やら甘いものが好きであれば甘いものお供えなさりよりましょう。それこそ甘い辛いに事欠く事のない様に御霊様のお供えもなさりよりましょう。けれどもそれをもう一ぺん検討して見なければいけません。私は親を大事にする年寄りを大切にする、云うなら第一人者の様に自負しておった。けれども年寄りのあんたが、そげな事を聞いて何になるのと平気で云いよる。
そして親の心中に触れてああ済まなかったと思う。矢張り人間は気付かぬところに、どれだけ御祖末御無礼があるか知れません。そこんところを今月はね取分け大事にして行く。云うならば甘い辛いのお供えさせてもらいよる。そのなかにもう一つ思い込めさせて頂いて、止むに止まれん年寄りを大切にすると云う心を込めて行く。目には見えない御先祖を大切にして行く。
粗末にはしておらんだろうけれども、もう一つその真中に真心を込めて行こう。昨日竹葉会若い嫁さん達の会合であります。その中に生金を使うと云う話がありました。信心で行く生金、信心のない時代に思うておった、又信心の浅い人が思うておる生金と云うのは、本当云うたら信心が分かってきたら、それはむしろお粗末御無礼、お神様がお嫌いになる様なことを、自分は生金を使っていると思っておった。
例えば何にもならん、どぶ川の中に捨てる様な金、これは勿論死に金です。けどもこれはまあまあ死に金でも罪がない。けれどもね、私共が生金と云って来たのは、ちゃんと自分の名前を書いて、何処何処様に上げる必ず帰って來る。そげんとを生金と思うておる。おかしな話ですよね。いわゆる自分の顔だけを大事にする。又返して貰わにゃならんから、それを生き金とこう思うておる。
信心させて貰うたら、もう実はそんなのは、神様がお嫌いになる心ですよ。条件がありますから、それを生金の様に思うておる。信心させて貰うたら、それこそ誰が知らんでも良い。それこそそっとした心、例えて申しますと皆さん、信者さん同志で祈り合をなさいますね。誰々さんが病気なら病気なさいます。難儀なら難儀しとんなさいますから、皆さんがその人の名前で御初穂奉られます。本人は知りません。
ここでなら私と神様だけが御承知ありません。例えて云うと私の一番下の子、栄四郎です。一番下の子が高校入学です。それを誰も知りません。親すらお届け致しませんのに、その方は一生懸命に栄四郎君の受験番号と栄四郎の名前を書いて参る。毎日お初穂を包んで、その方栄四郎の事を願うておられる。誰も知らん。例えて云うと私の家内も知らん。だから、御礼も云わん。如何にも死に金のごとあるでしょう。
御禮も言われんごとある金を使うことは死に金の様に思うておった。けれども、信心で云う生金とはそういう金の使い方を云う。問題は真心がこもっておると云う事なんだ。人が知らなくても良い。神様が御承知の事なのだ。と、云う様な意味の御理解を昨日頂いてから、先生実は今日のご理解を頂きまして、私が致しておりますことは死金になっておりはしませんでしょうかと、発表がありました。
と云うのは、先日から主人の父が見えられました。所がこの頃おかげで収入のおかげを頂いている時でもございましたから、そのお父さんに五千円お小使いを差し上げましたら大変喜ばれましたけれども、そのお父さんは非常に勝負事が好き、バクチが好き。だから、このお父さんに上げればね、すぐそげなことに使うて仕舞なさろうと思うたけれど、けど嫁としての真心はね、やはりそうしなければおられなかった。
この頃お父さん余分に収入のおかげ頂いておるから、お父さん少ないけれどもと云って五千円上げたと云うのである。所がそのお父さん是は火を見るより明か、すぐその勝負事に使われる事は目に見えておるけれども、やはり上げなければおられなかったが、こういう金は死に金でしょうかと尋ね質問があった。私は申しましたそれは成程、お父さんはそれこそドブの中に投げる様なお金を使うかも分かりません。
けれどもの真心と云うものはそれに添えてある中身が生きておる。そういう金こそ生きた金ですよと私は言いました。貴方の真心が付いてるよ。だからお父さんそのものは成程、それは遊びに使いなさるか知れんけど、それを上げた貴方の真心はね必ず返って來るだけでなくて、それこそ子供だけでない孫だけでない、曽孫まで連れて返ってくるでしょうねと言いました。
生きた金とはねそういう様に限りなく生きた働きをするものなんです。だから金にも修行させよ金にも苦労させよと言う様な御理解でした。奉仕員に対する御理解だったでしょうか。だから、生きた金とはそういう事なんです。話は少し今日の御理解から横道に反れましたけど、その若い嫁さんが主人のお父さんにみすみすそうすれば、そうなることが分かっとったけれどもですね、年寄りを大切にさせて貰う止むに止まれぬ心だと云う事が聞いて貰いたいです。
ですからね、この爺さんにこの場合こんな事したって何にもならんと思いましょうけども、それは私共の思いであってそれはそれでも良いのだ。それに私は真心を添えさせて頂くことが年寄りを大切にする心だと私は思う。遣っても何にもならん事に使うてじゃけん遣らぬ方が良い、それは何にならん事に使われてもこちらの真心、それが親を大切にする心。云うなら年寄りを大切にする心。それが神様に通う心。
一番最後に信心するものは、よう心得ておくがよいと仰って、信心させて頂く者はよう心がけておくが良い。いわゆる年寄りを大切にする心をもう一ぺん検討させて貰うて、粗末にはしよらん、しかし、その大切にしておると云うその度合と云うか、程度と云うか自分はどの程度のとこか。そこに果して真心が込められておるかどうか。真心をもって年寄りを大切にする、親を大切にする。目にはみえないけれども、先祖を大切にすると云う心が神の気感に叶う。
若い者でも役に立つ人は何となく人が敬う様になる。私は若い者がです、役に立つと云うことは、いろいろ家の為になるとか、社会の為に貢献するとか云った事も有りましょうけれども、此処では、年寄りを大切にせよと云うことが一番に云うてございますから、本当にあちらは若いのに感心だと、年寄りを大切にされると、そういう人は見ておってね、本当に有難い、尊い姿である。
そういう若い者ならば必ず大切にされる。しわくれ立った年寄りの手を引いてやる。そういう若い人ならです、必ずあああの人は若いのに珍しいと云うて人は誰を敬うかと云うと、今度はその若い人を敬う。敬うて貰う為大切にするのじゃない。いわゆるそういう真心であります。信心する者はよく心がけておくが良い。本当に心がけさせて頂き、大抵迂かつにしておりました私の話を聞いて頂きました様に、大抵に親を大事にするとか、年寄りを敬うとか、人後に落ちない積りの私がです。
今日聞いて頂いた様に、年寄りがそんなこと聞いてどうするのと云うた様なことを平気で皆年寄りの前で言いよる。がっかりなさっただろうと思う。親の心情に触れて改めておお、済まなかったと気付かせて頂いたんですけれども、本当に迂かつにしておる、そこから粗末なことになって参ります。そのお粗末になるところから、おかげが漏れたら大変です。折角これだけ精進しよるのに、そこからお粗末御無礼になって來る様なことでは相済まぬことですから。
信心する者は良くその辺のところを心掛けて迂かつになり勝ちなところ、特に目に見えないところは、取分け心掛けて置きませんと、さあ御仏壇の中はてんでもうごみだらけ、何時上げたか分からんごたる花がある。上げてある。迂かつなこういう事ではね、親に対する、先祖に対する目に見えない御霊に対する心が欠けとる証拠ですから、改めてそこんところを思うてみ、しかも信心する者はようそこんところを心掛けての信心生活でなければならんと思いますね。
どうぞ。